萬年寺
真宗大谷派
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常楽我浄

No 4 /2004/9/17


 仏教には「常(じょう)・楽(らく)・我(が)・浄(じょう)」という言葉があります。この言葉は私達が日頃頼みにしている四
つのものを表しています。 
 まず第一に「常」。変わらないということです。何が変わらないのか。それは自分です。「自分というのは変われずにいるものだ」という気持ちがあるのです。「十年前に比べてずいぶんと年を取ったものだ」と言いながら、「十年なんてあっという間」という思いがあります。実際ほど気持ちは年を取っていない訳です。またお酒好きな人が千鳥足になりながら、「全然酔ってない」と言っていることがありますが、回りの心配をよそに、本人は「まだ正常だ」という感覚を持っています。
自分はどこまでも「常」である気持ちを持ち続けています。

 次に「楽」です。私達は楽しんでいたいのです。自分がしんどい目や馬鹿な目に遭いたくはありません。もしそういった目に遭えば「どうして辛いことばかり…」「どうして自分だけが…」と言って落ち込みます。始めから「楽しむこと」を頼みにしていますから、それとは逆なことに中々対応出来ないのです。

 そして「我」であるということ。自分のもの。思い通りになるという気持ちです。なぜか私達には「自分の思い通りになって当然だ」という気持ちがあります。ですから自分の要望でも、自分でせずに、人に指図してやらせようとします。しかし時として、自分の思い通りに相手が動いてくれないことがあります。すると途端に腹が立ち、場合によっては泣き出し、騒ぎ立てます。なぜなら自分の思い通りになることが当然だという気持ちがあるからです。その反面、「他人」の思い通りは全く当然なことではありません。「我」と「他人」が衝突する構造です。このように「我」というのは大変やっかいなものです。

 最後の「浄」は、自分はいつでも清廉潔白である気持ちを持っていることを意味しています。回りから「あなたが悪い」「あなたのせいだ」と、自分を責め立てられることがあります。「どうやらそのようだ」と分っていても容易には認められないものがあります。「自分に過ちや罪はない」と、自分は「浄」である気持ちを持ち続けているからです。
 仏教ではこの「常楽我浄」を四顛倒(してんどう)といい、私達の誤ったものの見方であるとしています。つまり私達は「常」でも「楽」でも「我」でも「浄」でもないのに、「常楽我浄」という言葉で表されるものを頼みにしているのです。事実とは違うのですから、これはもう頼みにはなりません。「常楽我浄」という見方しか出来ない者が、それを事実に反しているという見方に変われば、ようやく真実というものが見えてきます。その上で、「事実に反したものを頼まずに、真実に依って生きなさい」と教え示されています。私達はよく「こんなはずではなかった」と言うことがありますが、「常楽我浄」という「こんなはず」を頼みにしている私達自身に、その原因があるのではないでしょうか。


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